2014/03/12
子供の頃、テレビで戦国時代の合戦シーンを見る度に思ったこと。それは、「先発隊の雑兵にはなりたくない」ということでした。大将が出撃開始の合図をすると「ワーッ」と叫びながら竹槍を持って突進し、すぐに弓矢か鉄砲で撃たれて死んでしまう。そんな役を演じることも嫌だし、本当に死んでしまうのはもっと嫌だと。それから、今川義元を確実に槍で刺し殺すために、羽交い締めにして自身も槍で突き通される役も嫌でした。でも、誰かがその役をやらないといけないし・・・。昔の人は疑問に思ったことはなかったのでしょうか?それとも名誉と思って散っていったのでしょうか?親や兄弟、あるいは妻子はどう感じたのでしょう?その後の保障はあったのでしょうか?
そこで思い出したのが、「一寸の虫にも五分の魂」という言葉でした。虫にも魂があるのなら、人間であればもっと大きな魂があっていい筈です。先に挙げた雑兵達も、それぞれの生活があり、喜んだり悩んだりしながら最期を迎えていったのだと思うのです。
今は、文明が発達し、生活は楽になっています。戦国時代に比べたら、皆が平等に扱われ、均等にチャンスが与えられる世の中になってきていると感じます。一方で、経済格差が生まれ、目に見えない階級が存在することも事実です。資本主義社会では、強い者が勝ち、弱い者が負けるのです。全員が勝つことはあり得ません。スポーツと同じです。しかし、弱者にも、敗者にも、魂はあります。どのくらいの大きさかは人それぞれだと思います。勝者が大きいかというと、そんなこともないような気がします。世間的に成功したと思われている人の魂が意外に小さい、ということもあるのでは?
虫でも五分の魂がある。それならば、私達人間の身長は五尺も六尺も(少し古い尺度ですが)あるのですから、二尺や三尺の魂があっていい筈です。お金がなくても、肩書きがなくても、不細工でも、不健康でも、年をとっても、魂だけは大きく持っていたいものです。そして、どんな小さな魂に対しても、無視することなく、大切に接してゆきたいと思います。